理解求めるべからず!本人だけが知る痛み 2017/06/27 03:46
また目が覚めちゃったので(笑)。
かつての僕は、自分の精神的なしんどさに酔っていた。だから、どんな人にも「精神的に」しんどい、ということを話していた。いわゆる精神論(根性論)をぶつけてきそうな、理解のなさそうな人にまでね。誰に対しても、「自分のしんどさを理解して!!」って訴えかけていたんだと思う。
しかし、今の僕は、それをいちいち言わなくなった。それは、昨晩、親に言われて気付いたことだ。
しんどいことを話す時も、漠然と「体調が悪い」という言い方をすることが多くなった。肉体・精神、どちらも、“体調”と言えば済む話だからね。
皆、どこか痛いんだよな。常に。未来への不安も危機感もなく、努力もせずに「どうにかなる」と思って呑気に生きている人は正直、どこが痛いんだろう(本当にどこか痛いんだろうか)って思うけど(笑)。
どこが、どれくらい痛いかなんて、自分にしかわからない。それが肉体的なものか、精神的なものか、も。それをいちいち他人に話し、理解を求めること自体がナンセンスなのだ。だって、相手に話した所で、その痛みがわかるはずがないもの。
人それぞれ痛みを抱えていて、中には「お前は良いよなぁ。俺なんてこんなに…」と、自分の方がもっと痛い、ということを言いたがる人がいる。
だけどもその痛みって、まず各々にしかわからないことだし、痛みの質というか原因というか…も人それぞれだから、天秤ではかれるはずがないのだ。
自分の痛みは、自分だけがしっかり理解してやれば良い。他人になどどんなに泣きながら訴えてもわからない。それは当然。全く別の個体だもの。理解しようと寄り添ってくれる人にだけ、わかってもらえば良いのだ。
もちろん、その“痛み”が、単なる現実逃避や甘えによるものだったり、自分の痛みに酔い過ぎたりすれば、寄り添ってくれる人が出てきても、「傷の舐め合い」ができる相手になりかねない。それはどうなのかって、自分を堕落させるものだ。
自己に対し哀憐の情を持ち、それに酔うことほど楽なことはない。「自分は苦しいんだ!!」と訴え続け、それを言い訳にするばかりで逃げ続ける…。過去の僕はそれをしていた。
だけどそれでは、人として成長できないし、寄り添ってくれる人も離れていってしまう。
ならば、それがどんな痛みであろうとも、主に自分の中だけに留め、しっかり向き合って、自己成長を図っていった方がずっと良い。そうすればいずれ、痛みからも解き放たれるわけだしね。
それができるように成長したから、(失敗に終わったけど)昨年度は就活で50社受け、時に落ち込みながらも、僕の天性の不撓不屈の精神で乗り切ってきた。
「これくらい誰でもできるんじゃないの?」と思っていたら、そうでもないみたい。転んだまま起き上がれなくなって、どんどん悪い方へ悪い方へと落ちていく人だって、世の中にはたくさんいる…。
僕の強みって、どんなに大きな挫折をしても、それによってどんなに精神的ダメージを受けても、必ず立ち上がれることだ。それも、凄まじいまでのスピードで。幼い頃から、人が生涯1回も経験するかしないかくらいの挫折を何度もしてきたからね。そうなれば、嫌でもたくましくなっていくのだ(笑)。
そうして強くなったことで、「自分」というものを確立できた。人に流されないから、時代遅れだの流行に合わないだの変人だのと叩かれても、「あ、そう。でも僕は僕の道を行くから」と、胸を張って言える。
だって、誰より自分のことが大事だもの。皆そうでしょ?自分のことをわかってやれる奴なんて、自分しかいない。他人に理解を求めても、その他人は自分にはなり代われないわけだし、わかるわけがないからバカバカしいだけ。
――それだけ僕が成長してきたのには、いろんな人の支えがあったから、なんだけどね。もちろん、大いに感謝している。
僕自身も、かつては人からのアドバイスを素直に聞き入れられず、猜疑心を持つばかりだったが、今は素直に聞き入れられる。どういうつもりか、明らかに余計なアドバイスをしてくる人もいるけど、そういうのは軽く流せば良い。
これだけ、へこたれず、前向きに生きられる僕のような人間を、どうして昨年度50社受けた各企業はどこも受け入れてくれなかったんだろうね(それだけは今でも悔しい!!腹立たしい!!)。
就活は、明らかに可能性のない人間の方が先に進める、理不尽な世界だった。
就活の場合、能力がなくても、人間性が悪くても、履歴書や面接で短所を長所として言い換え、論理的に説明し、納得させる。そのテクニックが必要だった。しかしモノは言いようで、それってすなわち屁理屈を言えってことだよな?って思って、それで良しとされている社会の流れに納得が行かないけど(笑)。
だけど、そういった“世渡り”の仕方を覚えていくことが、今後の僕の大きな課題だと思っている。それができるようになれば、僕はまた一歩、たくましく成長できるだろう。
以上、ィヨロシク!!
また目が覚めちゃったので(笑)。
だから、どんな人にも「精神的に」しんどい、ということを話していた。
いわゆる精神論(根性論)をぶつけてきそうな、理解のなさそうな人にまでね。
誰に対しても、「自分のしんどさを理解して!!」って訴えかけていたんだと思う。
しかし、今の僕は、それをいちいち言わなくなった。
それは、昨晩、親に言われて気付いたことだ。
しんどいことを話す時も、漠然と「体調が悪い」という言い方をすることが多くなった。
肉体・精神、どちらも、“体調”と言えば済む話だからね。
皆、どこか痛いんだよな。常に。
未来への不安も危機感もなく、努力もせずに「どうにかなる」と思って呑気に生きている人は正直、どこが痛いんだろう(本当にどこか痛いんだろうか)って思うけど(笑)。
どこが、どれくらい痛いかなんて、自分にしかわからない。
それが肉体的なものか、精神的なものか、も。
それをいちいち他人に話し、理解を求めること自体がナンセンスなのだ。
だって、相手に話した所で、その痛みがわかるはずがないもの。
人それぞれ痛みを抱えていて、中には「お前は良いよなぁ。俺なんてこんなに…」と、自分の方がもっと痛い、ということを言いたがる人がいる。
だけどもその痛みって、まず各々にしかわからないことだし、痛みの質というか原因というか…も人それぞれだから、天秤ではかれるはずがないのだ。
自分の痛みは、自分だけがしっかり理解してやれば良い。
他人になどどんなに泣きながら訴えてもわからない。それは当然。全く別の個体だもの。
理解しようと寄り添ってくれる人にだけ、わかってもらえば良いのだ。
もちろん、その“痛み”が、単なる現実逃避や甘えによるものだったり、自分の痛みに酔い過ぎたりすれば、寄り添ってくれる人が出てきても、「傷の舐め合い」ができる相手になりかねない。
それはどうなのかって、自分を堕落させるものだ。
自己に対し哀憐の情を持ち、それに酔うことほど楽なことはない。
「自分は苦しいんだ!!」と訴え続け、それを言い訳にするばかりで逃げ続ける…。過去の僕はそれをしていた。
だけどそれでは、人として成長できないし、寄り添ってくれる人も離れていってしまう。
ならば、それがどんな痛みであろうとも、主に自分の中だけに留め、しっかり向き合って、自己成長を図っていった方がずっと良い。
そうすればいずれ、痛みからも解き放たれるわけだしね。
それができるように成長したから、(失敗に終わったけど)昨年度は就活で50社受け、時に落ち込みながらも、僕の天性の不撓不屈の精神で乗り切ってきた。
「これくらい誰でもできるんじゃないの?」と思っていたら、そうでもないみたい。
転んだまま起き上がれなくなって、どんどん悪い方へ悪い方へと落ちていく人だって、世の中にはたくさんいる…。
僕の強みって、どんなに大きな挫折をしても、それによってどんなに精神的ダメージを受けても、必ず立ち上がれることだ。それも、凄まじいまでのスピードで。
幼い頃から、人が生涯1回も経験するかしないかくらいの挫折を何度もしてきたからね。
そうなれば、嫌でもたくましくなっていくのだ(笑)。
そうして強くなったことで、「自分」というものを確立できた。
人に流されないから、時代遅れだの流行に合わないだの変人だのと叩かれても、「あ、そう。でも僕は僕の道を行くから」と、胸を張って言える。
だって、誰より自分のことが大事だもの。皆そうでしょ?
自分のことをわかってやれる奴なんて、自分しかいない。
他人に理解を求めても、その他人は自分にはなり代われないわけだし、わかるわけがないからバカバカしいだけ。
――それだけ僕が成長してきたのには、いろんな人の支えがあったから、なんだけどね。
もちろん、大いに感謝している。
僕自身も、かつては人からのアドバイスを素直に聞き入れられず、猜疑心を持つばかりだったが、今は素直に聞き入れられる。
どういうつもりか、明らかに余計なアドバイスをしてくる人もいるけど、そういうのは軽く流せば良い。
これだけ、へこたれず、前向きに生きられる僕のような人間を、どうして昨年度50社受けた各企業はどこも受け入れてくれなかったんだろうね(それだけは今でも悔しい!!腹立たしい!!)。
就活は、明らかに可能性のない人間の方が先に進める、理不尽な世界だった。
就活の場合、能力がなくても、人間性が悪くても、履歴書や面接で短所を長所として言い換え、論理的に説明し、納得させる。そのテクニックが必要だった。
しかしモノは言いようで、それってすなわち屁理屈を言えってことだよな?って思って、それで良しとされている社会の流れに納得が行かないけど(笑)。
だけど、そういった“世渡り”の仕方を覚えていくことが、今後の僕の大きな課題だと思っている。
それができるようになれば、僕はまた一歩、たくましく成長できるだろう。
以上、ィヨロシク!!
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